セックスへの無知

紀伊国屋書店の新宿本店5階には
月替わりの小さな特設コーナー
「じんぶんや」
があります。

今月の選者は上野千鶴子氏。
テーマは「近代日本の下半身」。

上野さんの本棚を、
すなわち彼女の歴史を、
すなわち彼女の頭の中を、
垣間見れるのではないかと、
情報を入手してすぐに
いそいそと出かけていきました。

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何冊か走り読みして
つくづく突きつけられるのは
「ああ、なんて自分は
 セックスやセクシュアリティについて
 無知なまま
 婚姻生活に突入したのだろう」
ということ。

避妊については、性感染症については、
妊娠・出産については、
身を守るべきものとしての知識を得ていたし、
行動も伴っていた。

しかしセックスや性欲、性的嗜好といった
諸言説については
「なんかみんな、都合いいことばっかり
 言ってるぞ。」
という不愉快な違和感を覚えるばかりで、
真摯にむきあうことはなかった。

「結婚して、子どもを産んで、
 貞淑に真面目に生きていれば、
 一人の男性と閉じた性の世界に
 おさまるはずである。
 結婚さえすれば、
 そういった不愉快なものには
 自分は触れなくて済み、
 脅かされず、安全なはず。」

そういう幻想の中にいた。

その期待は裏切られ、私はたいそう傷ついたが、
その結果、
セックスやセクシュアリティにおいて
通俗的に当たり前とされていることのほとんどを
「お前ら、ばっかじゃねえの!」
と、ぶった斬る学問の世界があることを
知ることができた。

私はこれまで、
すぐ近くにこんなにも見晴らしのいい世界があるのに、
それにアクセスせずに来たわけである。

「だって私は大丈夫なはず。」

そう思って油断してきた。

その油断こそが、
私が親や世間から伝え聞いた近代の通説を信じ、
それを取り込み、
疑うことをしない一人の無知な人間であったことを
証明している。
そんなこれまでの自分を恥じる。

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~紀伊国屋HP 「じんぶんや」第三十七講
上野千鶴子さんエッセイより抜粋~

セックスは「両脚のあいだ」に、
セクシュアリティは「両耳のあいだ」にある。

人間はセックスを性器ではなく、
脳で行う生きものだ。
性器が欲望する、のではなく、脳が欲望する(略)。

…フーコーの『性の歴史』以降、
セクシュアリティを
「自然」と「本能」で語ることは禁句になった。

(中略)

It takes two to make it happen… 
セックスが成り立つためには、
ふたりの人間が要る。
そしてそのあいだには、
めのくらむような落差がある。

セックスはそのままで
愛の行為でもなければ快楽の経験でもない。

セックスは愛の行為であることもあれば、
憎悪の行為であることもある。
また快楽の経験であることもあれば、
凌辱の経験であることもある。
贈与であることもあれば、
労働であることもある。

いっぽうにとって支配と執着の行為であり、
他方にとって恐怖と虐待の経験であることもある。

セックスに「本質」はない。
ただ、
それがおかれる社会的な文脈と関係に応じて、
愛から憎悪まで、
快楽から凌辱までの
さまざまなスペクトラム上の位置を占めるだけだ。

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このエッセイはとても簡潔に
全てを言い得ていると思う。

これまでも確かに私が感じていた
「不愉快だ」という感覚。
しかしその感覚は漠然としていて
言葉を持たなかった。

私だけでなく誰もが無自覚でいるから
私が相手に不愉快だと訴えても、
「愛しているからこその行為だ。」
と言い返され、
人に相談しても、
「のろけなの? 愛されているのね。」
と切り返される。

このように
世間の通説にさらされた途端、
「何、堅苦しいこと言ってんの?
 そんなもんだよ。」
と一蹴される。
私の反論はとても弱弱しいものだった。

言葉を得た今ならわかる。

慈しみの行為であるはずの私の行為は
「愛ゆえの奉仕」と受け取られていた。

対等であるはずの関係が
相手がAVから取り込んだ文脈や
会社からもらってきた価値観によって
支配や所有・凌辱のプレイに変化していった。
(いや、正確には
 始まりからそういう文脈だったのかもしれない。)

私にとって慈しみは労働になり、
凌辱になり、
最終的には
自ら飛び込む自虐の行為となっていった。

私は無力症に陥り、感性を殺し、
死人のように世間に迎合していくしかなかった。
人の言う感覚の方が真実だと信じようとして
自分を納得させようともした。

でもある時、
「あんたのいる場所、間違ってるよ。」
そう古い友人に指摘され、
私はやっと生き延びられる世界に抜け出した。

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今の私には
私の持つ「不愉快」な感覚を
「確かに正しい」と後押しする
言葉がある。
学問がある。
人がいる。

そして

服を脱ぐかどうか、
どんな下着をつけるか、
どんな体位をするか、
どんな場所がいいか、
インサートをするかどうか、
イクかどうかといった
あらゆる形骸化されたセックス観に
縛られずに済み、

ただ自分の行為が心のままであるかどうか、
自分の振る舞いにウソがないか、

つまり
「『どこかで見た誰か』や
 『当たり前とされている何か』のとおりであれば
合格だろう」と、
形式どおりにやり過ごそうとしていないかを
慎重に省みながら、

何かに不安になったら全てをやめて、
つっかえつっかえ立ち止まり、
たくさんの言葉を紡ぎ、

ひたすらに誠実に、
純粋な慈しみだけの文脈で交わす
ささやかなセクシュアリティがある。

なんと心強いことだろう。

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