上野千鶴子さんの勉強会で著書を取り上げて頂きました
2008年10月28日、
東京大学本郷キャンパスにて
上野千鶴子さんの主催されているジェンダーの勉強会があり、
そこで私たちの本の書評セッションが行われました。
コメンテーターが
☆不登校当事者研究として知られる
貴戸理恵(きど・りえ)さん(日本女子大学 非常勤研究員)、
【著書】
『不登校は終わらない』(新曜社、2004年)
『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』(理論社、2005年)
『コドモであり続けるためのスキル』(理論社、2006年)
☆女性の薬物依存症者の回復を支援する日本で初めての民間施設
「ダルク女性ハウス」代表の
上岡陽江(かみおか・はるえ)さん
【雑誌】
■「私たちはなぜ寂しいのか」(精神看護 2008年07月号)
【著書】
『虐待という迷宮』(春秋社、2004年 共著)
という豪華メンバーだったので、参加者が50~60人にもなりました。
(通常の2倍だということです)
感謝の気持ちでいっぱいです。
【コメンテーターによる書評】
おふたりともそれぞれの当事者性に引き寄せて
深く読みといて下さいました。
貴戸さんは私たちの
1.「同じでもない、違うでもない」という相互理解の在り方
2.ディスコミュニケーションの原因を
一方の障害に帰責するのではなく関係性に照準する
という重要な二つの論点について
驚くほどの精密さで読み取って下さいました。
また、発達障害に限らず、
昨今広まりつつある
「当事者」という言葉をめぐって、
当事者と周囲との立場性の違いを
どう考えたらいいかについて問いかけがありました。
そして最後には
本著にジェンダーやセクシュアリティの
視点が欠けていることを指摘して下さいました。
上岡さんは
「(つらかった頃の)15歳の私に戻ってしまった」
「読んでいると私が綾屋さんになる」
「(他者との)境界線がなくなる久しぶりの体験」
などの感想を述べられました。
具合が悪くなるほど共振しながら
本著を読んで下さった様子が伝わってきました。
それらを踏まえ、私たちは、特に
一発達障害者のジェンダー・セクシュアリティについて、
及び、
当事者性の考え方について応答しました。
この応答内容については近日中に
このブログでアップしようと思っています。
【「当事者性」について】
特に「当事者性」という言葉の考え方については
上野千鶴子さんや会場の方々を巻き込みながら
議論が膨らみました。
私たちは
「ある問題系に照準した時に
その問題から降りられる人と降りられない人の間に
分断線があるのではないか」
というところから
「当事者性」という概念を立ち上がらせようとする
考えを持っています。
昨今、よく「支援者も当事者である」という言われ方がなされます。
そして
そういう問題のたて方によって
これまで黙して語らなかった支援者の内面が語られ、
当事者⇔支援者間のディスコミュニケーションが
改善する効果があるということもまた事実です。
しかし両者が
同じ「当事者」ということばで括られることによって、
「問題から降りられない被支援者」と
究極のところでは
「問題から降りられるであろう支援者」の間に、
厳然と存在する非対称性や権力関係が見逃される可能性について
私たちは警戒しています。
このことについては先日発表したばかりの論文
看護学雑誌2008年11月号 (通常号) ( Vol.72 No.11)
「触れられるように触れる 触れるように触れられる
―Abuseのない介助をめざして」
においても、少しだけ述べました。
この警戒心について
上野千鶴子さんは
おそらく大いに共有して下さったのだと思われ、
「当事者性という言葉のインフレを抑制する」
というご自身の戦略的立場を言明してくださいました。
それについては新刊著書である
『ニーズ中心の福祉社会へ』
において語られているそうです。
【自閉症概念とドメスティック・バイオレンス】
また私たちは
ディスコミュニケーションの原因を
一方に帰責させる従来の自閉症概念が
DV(ドメスティックバイオレンス)構造を温存させるのではないか、
という問題意識を持っています。
これについても臨床経験豊富な
信田さよ子さんから
「DV加害者を発達障害者と見立てることで
その加害行為を『仕方ないもの』とみなして、
自分を納得させる被害者が出始めている」
という報告をして下さいました。
私たちだけの危機意識だけではなく、
最前線の現場でも
発達障害概念の「罪(ざい)」の部分が
顕在化しつつあるのだなあと感じました。
【「したい性」は潜在化しない】
ほかにも、聴衆の一人から
「したい性」という概念がわからない。
私たちが日常的に行っている行動選択は
それほど「~したい」という動機に基づいているのではなく、
「食べたくないけど、仕方ないから食べる」
ということがほとんどなのではないか、
という質問がありました。
これに関しては一番伝わりにくい部分なので
どうやったら応答できるか
考えあぐねていたところ、
となりにいた上岡さんが一言、
「からだがうるさいんだよね~、わかるわかる。
無理に食べたら、あとで具合悪くなるしね~。」
と、さらりと応答して下さいました。
質問した方もこの一言で腑に落ちたようでした。
【領有か否か】
さらに、この本の成り立ちについての指摘もありました。
端的に言うなら
「この本は熊谷による綾屋の領有なのではないか」
というものです。
領有(りょうゆう):
もともとは領土を占有すること。
転じて他者を自らが理解しやすいような言葉で
理解し、他者の自己定義権を奪うこと。
これについては
そもそもこの本の執筆動機が
専門家による自閉当事者の領有的理解を壊すために書かれたものなので、
「結局、専門家と同じ」
「支配者が変わるだけに過ぎない」
ということにならないようにするためにはどうしたらいいか
という問題意識は
常に持ちながら原稿を書いてきました。
このあたりの葛藤や私たちの考え方については
年末の精神看護に掲載される予定の
伏見憲明氏との鼎談に述べられていますので、
ぜひご覧の上、ご意見を賜りたいと思います。
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~発表の裏側~
私たちは
初めてのパネルディスカッション形式の発表で
とても緊張しました。
その場で綾屋が声を出して発表するのは無理なので
あらかじめ発表内容を考えることにしました。
そして、当日は
パソコンからプロジェクターを使って
スクリーンに発表用文章を映し出し、
それを熊谷が読み上げる形で発表してみました。
質疑応答の際の綾屋の発言も
パソコンで応えようと思っていたのですが
緊張してパソコンを打つ指もままならなくなることが
今回わかりました。
よって急遽、綾屋が手話で話して、
それを熊谷が読み取る形式をとりました。
手探りでの発表でしたが、
今後の人前での発表スタイルがやや見えたかな、
という感じでした。