観戦「おひとりさまvsフリーター」

東大で行われた
上野千鶴子×フリーターズフリー座談会
「“おひとりさま”と“フリーター”は手を結べるか」
を見に行った。

おひとりさまの老後 おひとりさまの老後
(2007/07)
上野 千鶴子

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フリーターズフリー vol.2 (2) フリーターズフリー vol.2 (2)
(2008/12/03)
有限責任事業組合フリーターズフリー

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【フリーターズフリー組合員紹介】
生田武志:1964年生まれ。
有限責任事業組合フリーターズフリー組合員・
野宿者ネットワーク代表・
「ホームレス問題の授業づくり全国ネット」呼びかけ人。
著書に、
『〈野宿者襲撃〉論』(人文書院)、
『ルポ 最底辺 不安定就労と野宿』(ちくま新書)。
大澤信亮:1976年生。批評家。
慶応義塾大学院政策・メディア研究科修了。
有限責任事業組合フリーターズフリー組合員、
超左翼マガジン「ロスジェネ」編集委員。
著作に「宮澤賢治の暴力」(新潮新人賞評論部門受賞)、
「柄谷行人論」(「新潮」)、
「私小説的労働と組合」(「思想地図」)、
「左翼のどこが間違っているのか」(「ロスジェネ」)など。
栗田隆子:1973年生。
有限責任事業組合フリーターズフリー組合員・
女性と貧困ネットワーク呼びかけ人。
エッセイ『フェミニズムの瞬く場所』(『ふぇみん』2008年10月連載終了)
『エコロジカル・フェミニズム再考―「オルタナティブ」を実践するために』(『オルタ』2008年7・8月号)他。
『1995年 未了の問題圏』(大月書店、2008年)共著(雨宮処凛他)。
杉田俊介:1975年生。川崎市在住。
学生時代は主に日本の文芸批評を学ぶ。
その後アルバイトを転々とし、2002年より介護労働者。
現在、障害者サポートNPO法人職員。
有限責任事業組合フリーターズフリー組合員。
著書に『フリーターにとって「自由」とは何か』(人文書院、2005年)、
『無能力批評』(大月書店、2008年)。
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今回の参加はこのうち大澤・栗田・杉田3氏。
司会となった貴戸理恵氏(多摩美術大学非常勤講師)の
呼びかけによりセッティングされたこの企画は、
たいへんエキサイティングで心が沸く内容だった。
具体的な座談会の内容については今のところ
参議院議員 松浦大悟 オフィシャルサイト
千変万化
隠フェミニスト記(仮)
に記載されているのを発見したので、
そちらをご覧いただきたい。
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~以下徒然なる雑記~
思想地図での北田暁大氏による
上野千鶴子氏へのインタビューを見ても思ったのだが、
私たちはなぜ「上野千鶴子」に問うてしまうのだろう。

思想地図〈vol.2〉特集・ジェネレーション (NHKブックス別巻) 思想地図〈vol.2〉特集・ジェネレーション (NHKブックス別巻)
(2008/12)
不明

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私たち団塊ジュニア/ロスジェネ世代のなかには
小さな日々の生活の中で
それぞれの親に対して、
「なんだか私よりずっと安定して気楽に見える」
「私はこんなに不安定なのに、
 あいつら のうのうとしていやがる」
「育ててもらった恩義はあるが、
 無自覚な差別発言やまなざしを繰り出す点だけは
 決して許せない」
といった個人的な恨みねたみを持たずにはいられない
人々が少なくないと推測される。
私はそのひとり。
とはいえ実の親は
社会全体の中での自分の立ち位置まで
把握していないものだから
こちらが反撃しようにも埒が明かない。
そこで
親世代代表として
ラディカルな社会学者「上野千鶴子」に
白羽の矢を立ててしまう。
そんな感じなのかもしない。
フェミニスト「上野千鶴子」なら、
今の私たちが抱える
出口のない鬱屈とした問いに対し、
「既に何か明快な解を持っているのではないか」
と期待してしまう。
実は彼女は、
「見晴らしのいい場所から
すべてを把握しているのではないか」
と勘ぐってしまう。
でも上野氏はいつも絶妙に解をずらす。
こちらの問いには決して答えない。
パターナリズムに警戒する上野氏の立場は
いつだって
「解は自分たちで考えな!」
である。
そこがまた出し惜しみされているようでくやしい。
でもぶれない凛とした背中にこちらの背筋も伸びる。
(あくまでも個人的感想)
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さらに、
私たちの苦しい思いはなぜ
親に、
「上野千鶴子」に、
通じないのだろう。
っていうか通じるって何だろう。
「ああ、たいへんなんでちゅね~よしよし。」
ってされたいわけでもない。
「申し訳ありませんでした。」
と頭を下げてもらいたいわけでもない。
たぶん、私だったら
「上野千鶴子」に
「うん、それならわかる」
と言わせたいんだと思う。
それだけの強度のある言葉を作ることができたら、
親世代を変えることも可能になるかもしれない。
↑こう私たちに思わせるために
上野氏はあえてヒール役を買って出ているのではないか
とすら勘ぐってしまう。
そんなことを言ったら
「なんでそんなめんどくさいこと
 私があんたたちのために
 やってやんなきゃなんないの!」
と一蹴されそうだが。
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座談会の後、綾屋は少しだけ
フリーターズフリーの栗田さんと
話す機会を得ることができた。
偶然帰り道に一緒になったので
思い切って自己紹介をした。
すると栗田さんは、
私が先日一度
ブログに書いたけれど自信がなくて消した
フリーターズフリーvol.2の「ふ」についての感想の、
「『自己卑下の快楽』なんて残酷」
というタイトルだけを、
グーグル検索か何かで見たと仰った。
「残酷って書いてあったけど、
 そういうつもりで書いたわけではなかったんですけどねぇ。」
と栗田さんが戸惑いながら仰った時、
「あ、『そういうつもりじゃない』と言わせるということは
誤解されている」
と思った。
たぶん、栗田さんは検索に残っていたタイトルをみて
「自己卑下を快楽だというなんて、栗田は残酷だ」
という風に私が書いたと推測されたのだと思う。
その場では時間がなくてうまく説明できなかったので
以下弁明。
私がブログに書いた内容は
“栗田さんがフリーターズフリーに書いた
「ふ」という小説に共感した。
内容もテイストもとてもよかった”
というものだった。
そして
“その中に
「自己卑下と、そこから感じる異常な快楽」
という一節があって、動揺した。
ズキンとして焦ったということは
言い当てられたということなのかもしれない。
でも本当にそうなのだろうか。
快楽ゆえに私はこの自己卑下から出られないのだろうか。
いや、まだわからない。決めたくない。
でももしこんなにもつらい
自己卑下のぐるぐるした苦しみが
実は快楽だからこそ陥るモードなのだとしたら、
快楽との共依存ゆえなのだとしたら、
人間というのは
なんて残酷な仕組みにできあがっているのだろう”
という内容だった。
でもそれを
「なんかイマイチ冴えない感想だなー」
と思って消した。
決して栗田批判ではありません。
むしろこの「ふ」を書いた人は
どんな人だろうと楽しみに
この座談会を観戦にいったクチ。
いっぽう熊谷は、座談会後の食事会で
杉田さんと同じテーブルになり、
「介助者-被介助者トーク」
をしていた。
お互い感触がよかったみたいで
情報交換のために連絡先を交換していた。
私たち(綾屋・熊谷)は歩みはゆっくりだけれど
「これが新しい言説を紡ぐ
“ピア”のはじまりかもしれない」と
期待と怯えをまじえながら
栗田・杉田両氏と言葉を交わした。
こうやって
自分達にちょうどいい等身大の距離と時間で、
ちょっとずつ
人とのつながりが増えていけばいいなと思う。
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