シリーズ「おもらし」の当事者研究 その2

くましんさんによる
「おもらし」の当事者研究 その2です。

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◎排泄・おもらしケアの社会化

街を車椅子で走っているとき、
外食をしているとき、
授業中、
家で寝ているとき、
デートをしているとき…、

時と場所を選ばず、便意は突然やってくる。
大きな波が突然やってきたかと思いきや、
嘘のように静まり返る。
その繰り返す律動に脂汗をにじませ、
立ちすくみながら、対策を考える。
あらかじめ、
車椅子用トイレの場所をチェックしていても、
実際見てみると使い勝手が悪い場合も多い。
介助者は24時間付けているわけではないので、
駅職員、交番の警察官、通行人などを
なんぱしなくてはならない場合もある。
気もそぞろなのに笑顔でなんぱはきつい。

しばらくの間は、
「がまんしよう」と
「いっそあきらめてしまうか?」
との間で揺れ動くが、
便意があまりに強烈な場合は、
ある一線から、
「もう、あきらめよう」になる。
規範を破り、苦痛から開放される。
急ぎでなければ用事は途中で中断し、
そそくさと自宅に帰る。
自宅から緊急のホームヘルプを要請し、
きれいにしてもらう。
平均して、月に3~4回はこのようなことがあるだろうか。

このように、
排泄行動やおもらしした場合の対処行動を、
家族ではない第三者で
賄うことができるようになったことは、
自分にとって大変な自信につながった。
最悪の事態が起きても、
何とか自力でリカバリーできる、
という体験は、生活に自由度をもたらす。
トイレが心配だから、
という理由で行動を制限する局面が少なくなるのだ。

今の自分と比べれば、
家族介護に任せきりだった18までの私は、
排泄行為に関して主体性を奪われていた。
学校などで失敗すると、母が呼ばれ、
教室から運び出されて負ぶってシャワー室に向かう。
母は一言も発しない。
「なぜ早めに言わなかったのだ」
と非難する眼差しに消え入りそうになる。
ケアする手から、攻撃性を感じる。
失敗が起きないように、執拗にトイレを促され、
飲食も調整される。
いつも意識を便意に集中していると、
かえって便意が分からなくなるものだ。

数あるケアの中でも、排泄ケアは、非常に重要である。

それは、自尊心と密接に結びついており、
社会化することによって
それを自己管理できているという感覚は、
日々の生活を最底辺で支える自信となった。
しかし、多くの人の間では、摂食行為とは異なり、
排泄行為というのは私秘的な「情事」である。
したがって、
様々な局面で社会化された排泄を生きる人たちとの間に、
齟齬が生じてしまう。
その一例として、
セクシュアリティーの領域での問題を指摘しよう。

◎介助をしたがる恋人
―排泄とセクシュアリティー

排泄ケアは私秘度の高い領域が
公共空間に晒される相互行為だ。
性器とも場所が近いためか、
セクハラの温床になる。
一人暮らしをはじめて十二年になるが、
これまで排泄ケア中に、
性的な意味での不快感を感じたことは、
3~4回ある。
私のように、
他者の身体接触なしには生活がままならない人間は、
触れ方に込められた意図を
敏感に察知しすぎるのかもしれないが、
「そのさわり方、どうよ」
と感じずにはおれない場合は確かにある。
ケアの領域にセクシュアリティーの文脈を
立ち入らせないようにするため、
私個人としては排泄ケアは、
同性の異性愛の方にお願いしている。

逆にセクシュアリティーの領域に
ケアの文脈が浸入してくることもある。
かつて恋人に、
他の人に介助をしてほしくないと言われたことがあり、
大変戸惑った。
恋人が一手に介助を引き受けるというのは、
ケアの再私秘化を意味する。
かつての家族介護の経験からは、
それは決して良好で対等な人間関係を
築くものではないと感じていたので、
その申し出を受け入れることはできなかった。
そもそも社会化を認めてもらわなければ、
私自身の生活も立ちゆかなくなるのだ。
対等で大切な人間関係に、
なるべく労働としてのケア関係を
持ち込みたくないというのが、
私の思いである。

多数派が共有している規範の下では、
排泄も性も、
私秘領域にかくまわれがちだ。
私秘領域にかくまわれた活動間では、
なし崩し的な混同が起きる。
scatoloマニアなどはまさに、
排泄行為の支配やのぞき見が、
性的な文脈と相まって、
私秘領域の官能的な支配やのぞき見になっていく。
親密さとケアの分離は、
ケアが生活必需品である自分にとっては
重要ポイントである。

では、このような排泄の私秘化規範は、
どのようにして生まれ、再生産されていくのだろう。

その3

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