常識を疑い続ける

ピアサポ祭りへ行ってきた。

(ピアサポ祭りについての前の記事はこちら。)

フェミニズムや社会学の考え方や
当事者性を尊重する考え方において、
日本の最先端を行く人たちの講演。

「やっと同じ志をもった人々にたどり着いた。
 しかも社会的にかなりいいポジションにいる人々だ。
 私と同じ思想をもっている人が
 活動を貫いてきて、
 ちゃんと認められているというのは
 本当に心強い。
 『社会』も捨てたもんじゃないな。」

そう思えてホッとしていたはずなのに、
帰宅途中からだんだんと不安になってくる。

「大丈夫かな。
 アカデミックな桃源郷に
 たどり着いたかのような気がしているけど、
 この人たちの世界にいて
 大丈夫かな。
 私はこの世界に安住して
 鵜呑みにしていないかな。
 私は迎合していないかな。」

そう警戒する力が働き始める。

常識に乗れず、常識を疑って、
自分の考えと合うかどうかを
ひとつひとつ確認しながら
生きてきた自分にとって、
(今思えば知識や情報収集不足で
 間違った結果となったこともあるが、
 その時は可能な限り、
 自分なりに吟味しているのです。
 ↑言い訳。)

ある思想が
一定の集団の様相をなしてくると、
その集団の主張が
たとえ自分の大事にしていることと
同じようであっても、
「大丈夫かな」
と心配になってくる。

自分と同じ考えを持つ人を求めて
探して飛び込んでいくのに、
周囲を同志に囲まれて
自分の考えがマイノリティではなく
マジョリティ≒常識になってくると
心配になる。

私は何を心配しているのだろうか。

おそらく、私の恐れは
初めは同じ考えだと思っていても、
大きな集団へと育つうちに
自分の正しいと思う思想とは
微妙にズレた形で伝播していき、

大勢として動き始めた時にはもう、
訂正や歯止めが利かなくなることに
あるのだと思う。

「だってそれが常識でしょ。」
という言葉で片付けられ、
集団に属する人々に
懐疑的な視点がなくなる時が怖い。

自分と同じと思える集団の中にいることは
とても心強いものだということが
わかってきたけれど、

また、何かを変えるためには
集団の力が大事であることもわかるけれど、

それがその閉じられた狭い人々による
集団幻想に過ぎないことも自覚し、
「自分は自分」
という在りかたも貫かないと、
集団が自分とズレた時に
気づくことができず、流されてしまう。
それも怖い。

自分の信念を
うっかり譲ってしまったり、
忘れてしまったりして、
集団幻想に飲まれてはいけないと
警戒している。

そんな風に我が身を戒めつつ、
それでも同志を訪ね歩き、
つながっていきたいと思います。

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追記:

思いのほか
大きなことについて話そうと
してしまったみたいで、
イマイチ自分の言いたいことが
言い切れない、
歯切れの悪い文章に
なってしまいました。

この書き方だと
誤解をうけそうだから追記しよう
と思った点がふたつ。

私は

「人それぞれだから、
 どの考え方もそれなりに正しいよね~。」

「あの人はあんな風に言ってたけど、
 こんな考えもあるから、
 一概には言えないよね~。」

と一見、物分かりがよさそうなことを言う
人には警戒します。

そういう人の多くは
「自分の意見」を言わず、
結局、現状を追認し、
何も行動しないからです。

「で、正論はいいから、
 あなた個人の意見はどうなの。
 あなたはどう行動するの。」

と思わされます。

一方、
自分とは異なる考えの人であろうとも
「自分の考えはこうなのだ」
と主張を貫いてくれる人との対話は
議論が成立してワクワクします。

「あなたの考えのここは肯定できるが、
 ここには批判の余地がある。」
「いや、その批判には誤解がある。」
とか、

「あなたの意見はわかった。
 でも私はこう思うのだ。」
「なるほど、一理あります。」
とか、

そんなやりとりができる関係が
潔いのではないかと思うのです。

☆☆☆

また私は、
「自分らしさ」を
頑なに固持し続けようとするあまり、
人の思想をまったく受け入れない、
というわけでもありません。

「ただ無批判に洗脳されるようなことは
 警戒しなければならない」と、
俯瞰で見る視点を頭の片隅に持った上で、
それでも敢えて、
ある思想や主義に一通りどっぷり浸かって学び、
自分の行動の指針となるかどうか吟味し、
具体的な行動を起こす必要があるのかな、
と思うのです。