「コミュニケーション能力」は実在しない


「自由への問い 6労働」
責任編集:佐藤俊樹  岩波書店
を読んでいたら、
貴戸理恵氏の論文
「学校に行かない子ども・働かない若者には『社会性』がないのか」
234ページに
「発達障害当事者研究」が
とりあげられているのを発見。
ありがとうございます!
<235ページ引用>
「社会性」をはじめ「コミュニケーション能力」「対人能力」など、
本来二者以上の相互交渉の産物であるはずの「関係」を、
個人の「性質」や「能力」に還元してしまう言葉があふれている。
だがそうした個人への還元は相互交渉の失敗を
相手に一方的に帰責する点で、
「対等な交渉相手」として関係形成に臨むことからの逃避であり、
「社会」に居直る側のおごりではないだろうか。
<引用終わり>
ほんとにその通りだと思います。
貴戸さんの論文を踏まえつつ、
冒頭の佐藤俊樹氏×広田照幸氏の対談でも
コミュニケーション能力や社会性という尺度が
いかに恣意的で実在しないものであるかについて
議論しています。
いくつか引用します。
<17ページ>
佐藤:
日本型のメンバーシップでは、
働くことと具体的な内容が直接結びついていない。
だから、周囲の人とうまくやるとか円滑にこなすといったことが、
まっとうな働き方の大事な要素とされてしまう。
<18ページ>
佐藤:
実在しない点では幽霊や亡霊みたいなものですが、
実在しないからこそ、いったん「ある」ことになれば、
みんながその影におびえたり、
身につける努力をしなければならなくなる。
<19ページ>
広田:
「メリトクラシー」という言葉を使うと、
恣意的な評価や判断がまるごと正当化されてしまいかねない。
佐藤:
よけいなものは測らない。それがとても重要な点です。
佐藤:
社会学にとっても、この十数年でやった手痛い失敗の一つ
<20ページ>
佐藤:
新自由主義を批判してきた側も、同じロジックに乗って
踊っていたところがあるように思います。
<引用終わり>
スティグマとしての発達障害ブームという流れも
こういった文脈をふまえて
考えていきたいと思います。