シリーズ「おもらし」の当事者研究 その1

今回はくましんさんのレポートを
アップ致します。
長いレポートなので、
シリーズ形式で分割でお届け致します。
続きはまた後日アップしていきますので、
ご了承下さい。

第1講は序章です。

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<「おもらし」の当事者研究>

第1講:語り継がれるエルドラド問題

少なくとも現代日本では、
排泄行為というのは私秘性の高い活動である。
プライベートな場所で、プライベートな時間に、
こっそりと行うべきもの、という規範は
確固たるものだ。

また多くの文化では、
排泄物には、
『穢れ』の意識が投影されるため、
排泄行為は「穢れた私秘的活動」
もしくは、
「私秘的な禊の儀式」としての性格を
帯びることになる。

その規範を逸脱したものが、
「おもらし」である。
「おもらし」においては、
本来私秘領域に押しとどめておくべき穢れた排泄行為が、
公共空間に流出し、
他者の目に晒(さら)される。
「おもらし」をする当事者は、
自己管理に失敗し規範を逸脱した劣等感や、
公共空間とそこにいる他者を穢してしまった
罪責感に襲われることになる。

さらに、おもらししてしまった後に、
服を脱ぎ、シャワーを浴びて
きれいに汚れを洗い流す必要があるのだが、
そこにも他者の手が必要となる場合がある。
一連のケアを受けている間、
鼻をつく匂いの中、
自分の排泄物を処理する行為を、
黙っておこなう介助者に、
「もうしわけなさ」を感じないでいるのは
至難の業である。

おそらく介助者は、生理的不快感、
自己管理に失敗した相手を責める気持ち、
倫理的な義務感などの間で
高葛藤状態にあるだろう。
 
このように、身体的ケアの現場において、
失禁、とくに便失禁の問題は重要だ。
便失禁は、ケアをする側、される側双方にとって、
負担の強いものである。
身体障害者の自立生活においても、
便失禁は「エルドラド(黄金郷)問題」などと呼ばれ、
介助者、利用者の双方から、数々の言説を生んできた。

エルドラド問題、における利用者の劣等感・罪責感と、
介助者の高葛藤状態を緩和するための工夫として、
大きく言って二つの戦略があると思う。

ひとつは、問題自体をユーモラスかつ明け透けに主題化し、
笑い飛ばすというやり方。
今ひとつは、内なる劣等感・罪責間や高葛藤状態を、
互いに、神妙な面持ちで「告白」しあう
というやり方である。
この二つの方法は、
Scatology文学の系譜にも認められるという。

文学作品のなかに見られる糞便のテーマを
丹念に拾い集めた山田稔さんによれば、
糞尿のイメージの取り扱い方には
おおきく2つに分けられるという。
すなわち<解放型>と<挫折型>である。

<解放型>とは、作品のなかに糞尿が公然と登場し、
滑稽や笑いを伴うものである。
尻を拭く素材に何が最もふさわしいか
という議論が延々と続いたり、
招待した客人に
ひそかに下剤を飲ませて便を垂れ流す様を主人が楽しむ、
といったことを取りあげる。
そこでは、糞便は忌むべき対象ではなく、
人間の自然な排泄行為を正面から肯定する姿勢が見られる。
このような文学作品は
中世やルネサンスにおいて広く見られた
――例えばフランソアワ・ラブレー
『ガルガンチュア物語』をその代表とする。

他方<挫折型>では、
糞便への態度は抑圧的かつ否定的である。
作品のなかで糞便と対峙する主人公が気真面目であったり、
作中の人物が糞便をもって本人や大切な事物を汚す
という行為をとる。
また性的な要素として排泄が描写される。
この種の作品は、近代以降顕著に現れてきた。
糞尿は隠すべきまた排除すべき対象であり、
それ自身によって恥辱や自己破壊と結びつき
(なぜなら排除されるものを人間は身体に
 内包するからである)、
ときにブラック・ユーモアとなる
――ノーマン・メイラーや金芝河などの作品に
それを見ることができるという。

この文学作品における2つの糞尿の取り扱い方は、
ひるがえって見ると我々にとって
“排泄の存在というジレンマ”を克服する
2つの異なる手法、あるいは2つの認識の回路
となる可能性を示唆している。
にもかかわらず、そして読者も感じているように、
現況は<挫折型>がおおきな勢力をもち、
<解放型>がきわめてマイナーな領域に
閉じこめられている。

私自身は、どちらかというと、
排泄問題を「受け容れにくいもの」として
私秘領域にかくまい、
入り組んだ表出に陥りがちな<挫折型>ではなく、
<解放型>の戦略をとってきた。
しかし、一見<解放型>であっても、
主に介助者がおもしろおかしく語る言説の中には、
自らは失禁などしない非当事者である、
という安全な場所から、
他人事としてあげつらう向きもあり、
不快感を覚えた。
確率の違いだけであって、
誰しもが失禁リスクを背負っているというのに。

本稿ではこのような「おもらし」をめぐり、
以下の3つの問題を扱う。
 
1.「おもらし」とはどのような体験か、
 について個人的経験から考察する。
 また、
 『介助を独占したがる恋人』
 との経験にみられる、
 介助とセクシュアリティーの混同
 という問題をとりあげる。

2.そもそも排泄行為を
 私秘領域の穢れた活動とみなす規範が、
 どのような歴史的要因によって生み出され、
 そして再生産されてきたのか、
 について考察する。
 フロイトの
 『肛門期』の概念や、
 フランス革命前夜の糞便にまみれたパリの様相を
 書き綴ったルイ・セバスチャン・メルシェ作品を
 参考にする。

3.排泄行為やおもらしを、
 主体的に「脱私事化」する戦略を提案する。
 消極的プライバシー権から、
 積極的プライバシー権=パブリシティー権への転換として
 概念的に整理する。

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