カレン・ナカムラさん講演会 その2
より詳しい感想を
くましんさんのミクシイからの転載で
お伝えします。
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<仲間の条件>
おとといの水曜日、
相方のあややさんと
慶応大学のシンポジウムに行ってきました。
北海道の浦河に、
社会福祉法人『浦河べてるの家』
という場所があります。
そこで、
7ヶ月間にわたってフィールドワークをおこなった、
Yale大学文化人類学准教授のカレン・ナカムラ氏が、
研究の結果報告をするという企画でした。
カレンさんとは昨年の障害学会で始めてお会いし、
自分たちの発表に好意的なコメントを下さって、
励まされた人の一人です。
Tシャツにジーパンというラフな出で立ちで、
「会場のボランティアかな」と思ったほどでした。
ニコニコしていて、大変気さくな方です。
文化人類学は主に、民族的な少数派を、
その研究対象としてきました。
カレンさんは、
文化人類学が蓄積してきたマイナリティーに対する研究手法
(いわゆるエスノグラフィーです)を、
障害者への分析ツールとして応用しようとしている、
野心的な研究者の一人です。
もちろん、これまでにも、
障害というアイデンティティーを、
民族的アイデンティティーと同じようにみなす潮流は、
学問の中にも、社会運動の中にもありました。
公民権運動や平等派フェミニズム運動に後押しされる形で、
障害者運動も、
「社会による合理的配慮があれば、
障害は消え、差異しか残らなくなる。」
「手話が第一言語として認められ、
情報保障が達成されれば、
ろうは民族的差異に回収される。」
などという主張を繰り広げてきました。
しかしそこでは、
「スロープさえあれば健常者並になれる障害者」、
いわば、軽い障害をもった人が運動主体であったことを、
ナカムラ氏は指摘します。
そこでナカムラ氏は、
そのような「民族としての障害」
というアプローチでは取りこぼされる、
重い障害を持った人々の現実に注目します。
苦悩がなくなるユートピアを想定するのではなく、
苦悩が苦悩のまま前提とされる視点がなければ、
「重症心身障害者の自立生活支援法反対運動」や
「べてるの家」は読み解けない。
「障害としての障害」「苦悩としての苦悩」から
始めなくてはならない、と。
今回の講演会のタイトルは、
”CRAZY IN JAPAN”。
CRAZYという英語には、適切な日本語がないため、
まず講演会の冒頭にナカムラ氏は、
CRAZYを次のように現象学的に定式化しました。
『あるひとの個人的現実が、
そのひとが含まれている集団の社会的現実と
かけ離れている場合、
そのひとは、その集団によってCRAZYとラベルされる。』
非常にわかりやすく、フェアな定義です。
もしかしたら、多数派の共有する社会的現実の方が、
集団妄想かもしれないという可能性を排除していません。
いわゆる
幻覚妄想という個人的体験がCRAZYとみなされるのは、
その内容が社会的現実という集団妄想から
かけ離れている場合に限られます。
では、精神障害者に対する社会の「合理的配慮」とは
どのようなものになるのか。
社会的現実を、
彼らの個人的現実とすり合わせるような形へ
変えていくことなのか。
これが主要な問題設定です。
社会的現実を精神障害者の個人的現実に
近づけようとするならば、
その先には、
シャーマニズムの復興のような形での
ユートピア幻想が立ち現れるでしょう。
神との交信などの幻覚妄想を、
「ありうる現実」として集団が了解し、
共有することで、
シャーマンとしての精神障害者という
ラベリングの張り替えを行う。
このような戦略が万が一達成された暁には、
確かに上記の定義からすると
CRAZYではなくなるかもしれないが、
このように多種多様な妄想が乱立してしまった
ポストモダンな時代に、
一つの妄想に対して集団的合意を得ることは
ほぼ不可能と言えます。
カレンさんも、
かつてのロマン主義的な人類学に見られたような、
シャーマンとして
精神障害者を捉えようとするアプローチとは、
距離を置いているそうです。
では、べてるでは、
メンバー個人個人の「個人的現実=幻覚妄想」が、
集団としてはどのように受け止められているのでしょう。
精神障害者の多くは、
自らが幻覚妄想状態に陥っている時は、
それを現実だとみなしてしまいますが、
他の精神障害者が幻覚妄想状態に陥っている時には、
「あの人は幻覚妄想状態に陥っている」と
明確に認識できることがほとんどです。
また、本人も、幻覚妄想状態から抜け出た後には、
ちょうど夢から醒めた時と同じように
「自分は幻覚妄想状態に陥っていた」と
事後的に認識できることが多い。
ちょうど、片思いなどの恋愛妄想とよく似ています。
べてるでは、個人個人の幻覚妄想を、
「幻聴さん」「幻覚妄想状態」として明確にラベリングし、
集団的現実からは一線を画しています
(寮など、局所的な集団では、
集団幻想に成長することもありますが、
おおむねべてる全体では区別されています)。
しかし、冷たい精神医療と違うのは、
メンバーのほとんどが、
同じような幻覚妄想状態を、
自らも体験したことがあり、
その苦悩を熟知しているということです。
したがって、他者の幻覚妄想に対して、
その内容について真に受けることはないものの、
それに伴う感情の機微には深く共感する
というスタンスが取られる。
これはちょうど、誰かが片思いで苦しんでいる時に、
同じような片思いのつらさを
過去に経験したことのある仲間たちが、
相談にのる時のポジションに似ています。
妄想的苦悩の内容からは客観的に距離を置きながらも、
苦悩そのものには深く共感してくれるのが、
頼りになる仲間の条件といえます。
幻覚妄想に対して、
「内容からは距離をとり、苦悩には共感する」
仲間の存在こそが、
精神障害者にとっての『合理的配慮』かもしれない。
ナカムラ氏はフィールドワークの内容を、
ビデオに記録す
るという手法をとります。
講演会は、そのビデオを織り交ぜながら行われたのですが、
上記のような問題を考えさせるシーンが
特に印象に残りました。
そのエピソードは、次のようなものです。
べてるのあるメンバーが、
急に襟裳岬に行くと言い出し、仲間が理由を聞くと、
「宇宙人が襲ってくるので、
UFOに乗って闘わなければならない。
そのUFOは二人乗りで、明日襟裳岬に迎えに来る」
とのこと。
それを聞いてべてるの仲間は、大爆笑したそうです。
仲間たちは
「妄想さんも時々間違ったことを言う、
明日じゃなく別の日かもしれない」
等々説得したのですが、本人は納得しない。
そこである人が、
「UFOに乗るには免許がいるのだけど、持っているのか」
と言い、本人が「持っていない」というと、
「過去に無免許でUFOに乗って、足を怪我した人がいたよ。」
「川村宇宙センターに行く必要がある、
川村宇宙センターに行かないと
UFOの免許がもらえないから」
と言い、30人くらいいたその他の仲間も、
満場一致で
「そうだ、免許が無ければ乗れないよ。
明日川村宇宙センターに行かなくてはダメだよ」
と言って、説得した。
本人もそうかと納得し、翌日川村先生の診察を受けて、
入院することになった。
このエピソードで幻覚妄想状態に陥ったメンバーは、
べてるにやってきた当初はみんなから、
精神障害を持っていない人だと思われていたそうです。
このエピソードが彼にとって(たぶん)始めての
幻覚妄想状態だったわけです。
私とあややさんは、
このエピソードは微妙だなあと感じていました。
もし自分がこのメンバーの立場だったら、
自らの個人的現実を大爆笑されて、
巧みに精神病院へと誘導していくこのメンバーたちを、
仲間と感じられるだろうか、と。
特に自分は、大爆笑したというところに違和感を覚え、
講演会の後にべてるのスタッフの方に、
「あの時大爆笑が湧き上がったのは、
共感的なポジションがなかったからではないのか?」
と質問しました。
スタッフの方は、
少し困ったような顔をされながらおもむろに
「あの時みんなが大爆笑したのは、
あんなに真面目でW大学も出たようなエリートが、
突拍子もない幻覚妄想状態になるってところが、
ネタとして面白かったからだと思います。」
と答えてくださいました。
目からうろこでした。
生真面目な問題設定をしていた自分に抜け落ちていたのは、
彼のまじめなキャラクターを踏まえての
大爆笑だったという認識と、
このべてるというコミュニティーでは、
幻覚妄想状態という体験が、
ちょうど恋愛のように、
誰もが日常的にいつ陥るとも分からない、
手を焼くエピソードとして共有されており、
その対処法にこなれているという認識でした。
しかも30人が一斉に大爆笑したということからは、
彼のキャラクターや妄想幻覚状態のなんたるかが、
コミュニケーションの共通前提、
すなわち社会的現実として仲間の間で
しっかり共有されているという事実が伺われます。
彼のキャラクターや妄想幻覚状態の
なんたるかを知らないまま、
彼を「一人の精神障害者」としてみなして
共感したつもりになり、
大爆笑を問題化してしまったという意味では、
自分のほうが偏見を持っていたとも言えます。
そして、苦悩の重さを量的によく知り、
どのような行動が
この苦悩から抜け出す最短コースかということも、
仲間たちが一番知っていたのかもしれない。
少なくとも、自分よりは知っているでしょう。
そんな仲間たちの、
「冷静(内容には共感せず)で、
暖かい(苦悩には共感する)」
合理的配慮は、
河村宇宙センター(精神科医河村氏の外来の、即席別称)へ
誘導するというものだったのかもしれません。
その証拠に、
彼を連れ出したメンバーの一人は当時を振り返って、
『「行かなきゃ」という焦燥感は変えられないから、
行く先を「襟裳岬」から
「河村宇宙センター」にシフトさせたの。
それがうまくいった』
といっていました。
この判断はおそらく、
同じ経験をした先輩ならではじゃないかと感じます。